内存在そのもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:10 UTC 版)
「われわれは世界の中にいる」という「現象」において、「中にある」ということは一体どういうことなのか? ハイデッガーによれば、一般に中にあるとは、例えば、コップの中に水があるという場合、コップという「空間」の中という「位置」に水があると理解されるが、内存在における中とは、一義的にはそのような空間的関係を示すものではなく、世界「となじんでいる」という現存在の存在を表現するための形式的な実存論的表現であり、それは現存在が世界=内=存在という本質的構成を持っていることに由来する。 それは、二つの客体的存在者が中間において会同するという誤った存在論的な見積もりを予防するために明らかにされなければならないもので、彼によれば、現存在は各自「現」に存在している。「現」とは、「ここ」、「あそこ」という「ありか」を定める現存在の空間性であるが、「ここ」や「あそこ」が可能であるのは、「現に」あるからであり、そのような意味で「現」は、現存在が本質的に閉じていないこと、言い換えるならば、可能性を本質とする「開示態」であることの表現である。したがって、内存在そのものを解明するにあたっては、開示態の構成が原義的にどのように性格付けられるかを明らかにしなければならない(第1篇5章28節)。 現存在は「心境 -了解 – 話し」によって、身の廻りの世界の何であるかを開示し、自分の新たな可能性をめがけつつ存在している。
※この「内存在そのもの」の解説は、「存在と時間」の解説の一部です。
「内存在そのもの」を含む「存在と時間」の記事については、「存在と時間」の概要を参照ください。
- 内存在そのもののページへのリンク