共立学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:29 UTC 版)
「開成中学校・高等学校」の記事における「共立学校」の解説
1871年、加賀藩の洋学・砲術・海洋学の講師から小石川造兵司頭になった佐野鼎らによって神田淡路町の相生橋(現:昌平橋)に共立学校(きょうりゅうがっこう)として創立された。2代目校主には佐野の娘婿の伊藤祐之(札幌製糖社長)が就いた。この時代の卒業生に高田早苗らがいる。佐野のコレラによる死後には廃校同様となったが、1878年に大学予備門の教師をしていた高橋是清が校長、鈴木智雄らが講師に就任し、大学予備門への進学者のための寄宿制の進学予備校として改革、英学科と和漢学科の二科の三年制(予科1年、本科3年)と定めた。是清が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達した。以降も、東京英語学校(現:日本学園中・高)や成立学舎などとともに、第一高等中学校(のちの一高)への合格者数上位校として知られていた。 1891年の中学校令の一部改正公布に則り、尋常中学共立学校と改称し尋常中学校への転換を図ったが、学校組織は依然のままであった。
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