全国の分県運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 05:07 UTC 版)
当時、全国的に府県を合併することが盛んに行われた。1871年7月の廃藩置県の当初には305もあった府県が、その3ヶ月後には第一次府県統合によって75へ減らされ、1876年には第二次府県統合によって38にまで削減された(若松県もこのとき廃止)。これは現行の46都府県よりも8県少ないものであった。 しかし、この38府県への統合によって廃止された諸県では、住民の不満が噴出していた。予算の配分が各地域で不公平であることや、地理的利害が不一致なこと、そして県庁までの距離が増大したことによる交通の不便、さらに県庁や官庁を失ったことによる経済的衰退などが訴えられた。それらの住民は「再び県を独立させよ」という分県運動を起こした。 結果、それらの住民による分県運動は中央政府にも認められ、1880年(明治13年)から1888年(明治21年)までに8つの県が独立・復活した。次にそれらの例を示す。 廃止されたのち復活した県県名編入先の府県復活した年度徳島県 高知県 1880年 鳥取県 島根県 1881年 福井県 石川県と滋賀県 1881年 富山県 石川県 1883年 佐賀県 三潴県 → 長崎県 1883年 宮崎県 鹿児島県 1883年 奈良県 堺県 → 大阪府 1887年 香川県 名東県 → 愛媛県 1888年
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