何処までも一本道や桃の中
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
秋 |
出 典 |
たかし全集 |
前 書 |
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評 言 |
単に桃といえば桃の花なのか、桃の実なのか。江戸期までは主として桃の花を愛でていたため、桃といえば桃の花のことだった。 「両の手に桃や桜や草の餅」(芭蕉)は、愛弟子の嵐雪と其角を桃と桜の花に喩えたもの。「家あるまで桃の中みちふみいりぬ」(白雄)は、たかしの句と似ているが、白雄は江戸期の俳人なので、これは桃の花。「葛飾や桃の籬も水田べり」(水原秋櫻子)も桃の花。 たかしは桃の花のこととして作っている可能性もあるが、この句は桃の実としてイメージが広がる。ここでは「桃の中」に注目、「桃の花」ならこの句でも「桃の花」でいいはずだが、あえて「桃の中」といっている。また「一本道」は、現実の桃畠の道が一本道とは考えられないので比喩であろう。桃といえば女性の比喩、その一本道とは母、祖母、曽祖母へとつながってゆく女の歴史であろう。その一本道の中に作者も存在しているのだ。眼前の桃の実を見ながらはるかな暦史に思いを馳せるのだ。歴史と一本道を重ねるのは「戦前の一本道が現るる」(三橋敏雄)にもある。 さて「もも」の語源には「真実(まみ)」より転じたとする説(『大言海』)。実の赤い色から「燃実(もえみ)」の義(鈴江潔子『言葉の根しらべ』、『大言海』)。多くの実をつけることから「百(もも)」とする説(『東雅』、『言葉の根しらべ』、『大言海』)。「もりもりの義(『名言通』)などがあるが定かではない。俳句では「桃吹く」といえば棉の開絮のこと。桃以外にも李(すもも)、山桃(やまもも)、苔桃(こけもも)など、いろいろな「もも」がある。つまり「もも」とは、「内部が充実してはちきれるような状態」をいうのではないか。太腿の「もも」も同じ。これは語源についての私の新説。 |
評 者 |
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備 考 |
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