佐賀の美術界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 09:52 UTC 版)
諸外国に開かれた長崎警備の任を果たしていた佐賀藩は早くから西欧の技術・知識の導入を進めていたが、美術においても同様で、文化八年(1811年)に9代藩主鍋島斉直の命で三名の藩士が「司馬江漢が画する油絵の蛮画」を学んだとの記録がある。その後、1871年(明治4年)の岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧して洋画を学び、日本で最初に洋画・裸婦像を描いた人物とも言われる百武兼行(1842-1884)や、フランスで画を学び、黒田清輝と共に白馬会を結成し美術界に新風を吹き込んだ久米桂一郎、更に久米に学び共に白馬会に参加した岡田三郎助らを輩出していた。
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