会津の分県運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 05:07 UTC 版)
上述のような地域と同様、廃止された旧若松県の住民たちも不便を訴え、分県運動を行った。 運動の中心となったのは若松町内の有力商人であり、『会津帝政党』などの旧藩士族層によって担われたとみられる。 運動の動機には、戊辰戦争の敗北後における会津の深刻な政治・経済状況があった。商況の不振から、道路の開墾や、在来産業の発展、山林の維持などが福島県議会で訴えられた。これら困難な地域問題に対して、一つの県として自立することで、独自の財政基盤によって地域産業(漆器・陶磁器・絹織物業など)の育成を目指した。
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