仙石久隆とは? わかりやすく解説

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仙石久隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/17 14:00 UTC 版)

仙石 久隆(せんごく ひさたか、文禄3年(1594年) - 正保2年5月21日1645年6月15日))は、江戸時代前期の旗本

信濃国小諸藩初代藩主・仙石秀久の七男。子に仙石久邦、娘(竹中重堅妻)、娘(天野長重妻)。通称は右近、弥兵衛。官位は従五位下、大和守。

生涯

文禄3年(1594年)、信濃国小諸藩初代藩主・仙石秀久の七男として誕生。

慶長9年(1604年)、将軍徳川家康に拝謁し、徳川秀忠の側近として仕える。先に召しだされた五兄の丹波守政能の采地である上総武射郡上野国3000石を相続する。両大坂の陣に三兄の忠政と共に出陣し、元和3年(1617年)、書院番に列し、2代将軍・秀忠上洛に供奉する。また寛永3年(1626年)、3代将軍・徳川家光の上洛と参内にも供奉し、御使番となる。

寛永4年(1627年)、会津若松城加藤嘉明が入封する際に引渡役を務める。寛永6年(1629年)、目付となる。寛永7年(1630年)、相模国底倉温泉において将軍の旅館造営を奉行し、同年加藤嘉明が病床に臥すと幕命で会津に赴く。寛永9年(1632年)、熊本城細川忠利が入封する際に板倉重昌に従って赴く。寛永10年(1633年)、幕命で徳川忠長の配所高崎城に赴き、同年12月26日、甲斐国1000石を加増される。

寛永11年(1634年)1月25日、家光の上洛の際、駿河国薩埵山遠江国本坂の道普請を承る。寛永12年(1635年)5月10日、幕命で長崎に赴き、同年5月20日から12月25日まで長崎奉行を務める。寛永13年(1636年)4月10日、小姓組番頭となる。

正保2年(1645年)、死去。享年52。法名は宗祐。下谷の養源寺に葬られた。

参考文献




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