他のDJへの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 01:15 UTC 版)
1975年グランドマスター・フラッシュはハークを救世主と呼び、彼のDJスタイルを取り入れた。1年後にはすでに、取り仕切れない若いお客にうんざりしたマンハッタン地区のイベント会場のオーナー達は彼の演奏を拒否。ヒップホップ音楽はブロンクス地区のクラブ、コミュニティセンター、学校の講堂に送り返された。アフリカ・バンバータは1973年に初めてハークのDJを耳にする。バンバータは当時ブラック・スペードというギャングに所属していたが、1975年にサウンドシステムを購入し、ハークのDJスタイルを学び、のち周りの仲間を非暴力団体ズール・ネイションに改心させていくこととなる。この1975年にハークはザ・インクレディブル・ボンゴバンドの「アパッチ」をブレイクとして取り入れ、これが現在でも使われる「ブロンクス国家」とも言われるビーボーイズの流行最先端となる。
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