人柄 弟子の仁科への評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:27 UTC 版)
理化学研究所時代の弟子からは慕われ、「親方」と呼ばれた。ドイツ滞在中に励ましの書簡を送られた朝永振一郎は、仁科を「温かく親しみやすかった」と評している。また、湯川秀樹は新粒子予言のさいにボーアから批判を受けたが仁科はこれをかばい、後に湯川は「非常に鼓舞された」と語っている。 弟子の仁科への評 武谷の評 「仁科先生のいいところは何でも素人だったことだ」 朝永の評 「仁科はデカイことばかり考えている「山師」で「親方」のようなところがあって、仁科の論文は連名論文ばかり」朝永が東京教育大学に教授として招かれ、研究会を移そうという話が出た。このとき、朝永は「親父がさびしがるから」と研究会を仁科の下に留め置き、理研で研究会を続けた。研究会からは、南部陽一郎、西島和彦、木庭二郎など多くの学者が巣立った。3段階論の武谷三男も研究会をたびたび訪れ、活発に議論を交わした。 仁科は、湯川がノーベル賞をもらった時、湯川君を呼べばよかったと嘆息した。
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