亀井氏の入城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:15 UTC 版)
1580年(天正8年)羽柴秀吉による第1次鳥取城攻撃の際に織田方の城となり、尼子家の旧臣亀井茲矩が守将となった。茲矩は本能寺の変後に秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して加増され、都合3万8,000石の領主として近世大名となった(鹿野藩)。この過程で、鹿野城は近世城郭へと改築された。 亀井茲矩は朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。また、城の改築にあたり、亀井家略紋(丸に一つ引)の入った瓦を使用している。 1617年(元和3年)、茲矩の嫡子政矩は津和野藩へ転封される。
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