不求庵時代(嘉永4年9月~明治5年 54~75歳)
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「貞心尼」の記事における「不求庵時代(嘉永4年9月~明治5年 54~75歳)」の解説
そして嘉永四年彼女の不在中火災に遭って釈迦堂の焼失した後に於ても、彼女は彼女の歌の友でありかつ道の友であった山田静里を初め多くの人々の寄進によって真光寺と称する寺の側に新しい草庵を結んで貰い、そこに安らかな生活を続けることが出来た。その草庵は施主山田静里によって不求庵と名づけられた。それは八畳と四畳と三畳との三間しかない狭い庵であった。彼女はそこに二人の弟子と共に住んでいた。しかし、それでさえも彼女には勿体ないほど広く感じられた。なおその庵を不求庵と命名したについて施主山田静里はこんなように書いている。その文章は当時貞心尼その人が世間からどんな風に見られていたかの証左ともなると思うから、ここにその全文を掲げて置くことにする。 「よろづのものおのれに求めむより、求めずしておのづから得るこそ、まことの得るとはいふべけれ。されば佛説にも聖經にもさるすぢにをしへありとぞ 此庵のあるじ貞心尼のぬしは、年頃佛の道のおこなひは更なり、月花のみやびより外にいささか世に求むることなく、よろずむなし心に物したまふ。月日を和歌の浦波に心をよせて、あま衣たちなれぬる人々はかねてよりよく知り侍りぬ。しかるにことしの永月の末つかたまがつ火の災ひにてもと住まひたまひしあたりも一つらのやけ野となりぬれば、かの心しれる人々諸ともにことはからひつゝ、あらたにさゝやかなる草の庵を結びて、あるじをうつしすゑまゐらすことゝはなりぬ。これや、さは求めずしておのづからに得るとも云ふべけれとて、不求庵とは名づけ侍るになむ。 もとめなき心ひとつはかりそめの草の庵も住みよかるらむ こは嘉永四年亥の長月半ばのことにぞありける。かくいふは方寸居のあるじの翁静里」 こうした里人達のあたたかな愛敬のうちに、貞心尼は二人の弟子達と共に清く安らかな晩年を送ることを得たのであった。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 40~42
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