三州白龍の法嗣として
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京都に生まれる。享保元年(1716年)の秋、曹洞宗の寺院源光庵の三州白龍のもとに投ず。同13年(1728年)の春、隠之道顕の江戸妙喜庵に参じ、梵林(桂巌梵林)や晣賢(晣賢黙伝・戒光折賢)等と法友となり掛錫する。同14年(1729年)、加賀の宝円寺の大用慧照に参じ、戒脈を相承する。同15年(1730年)の春、加賀の大乗寺の大機行休に参ずるが大機は示寂する。同年秋、三洲が大乗寺の後席となり、随身として仕える。同17年(1732年)の冬、三洲の『鷹峯卍山和尚広録』(『卍山広録』)の刊行を発願、卍海はその幹事となり、約10年で刊行する。同18年(1733年)、三洲の印証を授かる。元文2年(1737年)の冬、加賀の浄明寺の覚岸白明の安居に赴く。同年秋、越前国の永平寺に瑞世拝登する。のち京都の妙玄庵(現在は廃寺)に8-9年住み、『宗統復古志』を筆受した。
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