七騎供養塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 09:25 UTC 版)
「称名寺 (加古川市)」の記事における「七騎供養塔」の解説
境内には七騎供養塔があり、文政3年(1820年)に建立された。南北朝時代の正平5年(1350年)、塩冶高貞が、事実と異なる密告によって京都を追われ、本国の出雲国へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、現在の加古川市米田町船頭の附近で追いつかれた。その時、弟の六郎ほか郎党七人が、主君のためこの場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦い、全員討死した。この塔は、彼ら7人を供養するために建立された。撰文および書は、頼山陽の筆によるものである。山田佐右衛門が願主となり、川西彦九郎、桜井九郎左衛門が施主となって完成させた。 七騎供養塔
※この「七騎供養塔」の解説は、「称名寺 (加古川市)」の解説の一部です。
「七騎供養塔」を含む「称名寺 (加古川市)」の記事については、「称名寺 (加古川市)」の概要を参照ください。
- 七騎供養塔のページへのリンク