ワタクシが私を生きるカンナ緋に
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季 語 |
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出 典 |
ワタクシと私 |
前 書 |
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評 言 |
私を「ワタクシ」と書くときの作者の心境は、どのようなものであろうか。広島もヒロシマと書くことにより、俄然意味が違ってくる。この句もそのような、ある事件(事柄)により、私がワタクシになったのだろうか。 ワタクシと私という2つの人物を登場させ、それらに別々に語らせたり、ダブって語らせたりする手法であるが、それだけににとどまらぬ何かを感じるのである。それは作者が実生活において壮絶な体験をされて、人生観、価値観等が180度転換したような、ワタクシと私の原点であると感じるのである。それは、誰をも掴み得ない、いや、作者自身さえも掴みきれないものなのかも知れない。 それはそれとして、掲句を俳句として鑑賞すると、作者の生きる気迫を強く感じるのである。カンナと緋という付き過ぎとも思える季語を配することにより、句の出来不出来を超えた迫力を持って読者に訴えるのである。 ワタクシと私、どちらが主人公であるのか、それは作者自身が永久に追い続けるテーマなのであろう。読者はそこにはこだわらず1句1句を鑑賞するのが鑑賞態度というものであろう。私(筆者)が誤解を恐れず言えば、作者が「ワタクシと私」という鎧を脱ぎ捨てたときに新たな大きな道が開けてくるのではなかろうか。いやすでに抜けたのであろうか。掲句の掲載された句集には、他に次の2句が登載されている。そこに発展成長している作者の息吹を感じるのである。 ワタクシを捨てれば手足生えてくる 春の夢私を抜けるワタクシが 撮影:青木繁伸(群馬県前橋市) |
評 者 |
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備 考 |
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