ロマン・クラムシュティク
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ロマン・クラムシュティク
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Roman Kramsztyk | |
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1932年のロマン・クラムシュティク
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生誕 | 1885年8月18日 ワルシャワ |
死没 | 1942年8月6日 (56歳没) ワルシャワ |

ロマン・クラムシュティク(ポーランド語:Roman Kramsztyk, 1885年8月18日 - 1942年8月6日)は、ポーランドの画家である。肖像画、寓意画、ヌードを描いた。ユダヤ系の画家で、第二次世界大戦中にドイツ側の兵士にワルシャワで射殺された。
略歴
ロシア帝国の支配下のワルシャワのユダヤ系家族にの生まれた。ワルシャワのゾフィア・スタンキェヴィチ (Zofia Stankiewicz: 1862-1955)やアドルフ・エドヴァルト・ヘルシュタイン(1869-1932)、ミウォシュ・コタルビンスキ( Miłosz Kotarbiński: 1854-1944)に学び、1903年から1904年の間はクラクフ美術アカデミーでユゼフ・メホフェル (1869-1946)に学んだ。ミュンヘン美術院で修行を続け、1904年からヨハン・カスパー・ヘルテリッヒに学んだ。1910年から1914年の間はパリで修行した。1908年のサロン・ドートンヌに出展し、その後アンデパンダン展などに出展した。
第一次世界大戦中は、ポーランドに帰国し、1918年に美術家グループ「Nowa Grupa」のメンバーとなった。ワルシャワでヘルシュタインらと活動し、1922年に美術家グループ「Rytm」の共同創設者になった。その後パリを拠点に活動するようになり、ポーランドでの展覧会のため、年に一度ほど、ポーランドに戻る生活を続けた。1937年のパリ万国博覧会や、1939年のニューヨーク万国博覧会[1]など各国の展覧会に参加した。
1939年の帰国中に第二次世界大戦が勃発し、ワルシャワ・ゲットーに留まることにし、ゲットーで、ホロコースト時代のユダヤ人の貧困や、飢餓、死を描いた素描を残した。1942年のドイツ軍部隊によるゲットーの掃討中に、ドイツ軍の指揮されたアンドレイ・ウラソフの「ロシア解放軍」の隊員によって射殺された[2] 。
作品
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イチジク狩り (1921)
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画廊所有者Adolphe Baslerの肖像画(1912)
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ヌード
脚注
参考文献
- Władysława Jaworska, Agnieszka Morawińska u. a., Malarstwo polskie w kolekcji Ewy i Wojciecha Fibakow (Polish painting in the Ewa and Wojtek Fibak Collection), Verlag Auriga, ISBN 83-221-0623-8, Warschau 1992, S. 140ff.
- Urszula Makowska: Kramsztyk, Roman. In: Allgemeines Künstlerlexikon. Die Bildenden Künstler aller Zeiten und Völker (AKL). Band 81, De Gruyter, Berlin 2014, ISBN 978-3-11-023186-1, S. 472 f.
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