リサールと末広鉄腸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 07:10 UTC 版)
「フィリピン独立革命」の記事における「リサールと末広鉄腸」の解説
1888年(明治21年)、スペイン当局からの弾圧を避け国外に亡命していたリサールは日本滞在(当時彼が宿泊していたホテルの跡地を示す碑が日比谷公園内に建立されている)ののちアメリカを経由してロンドンに向かった。この時彼と知り合った自由民権運動家・末広鉄腸はリサールと親交を結び、彼との同行記を『唖之旅行』(鉄腸が英語を話せず常に日本語を解するリサールを通じて意志を疎通していたことによるもの)にまとめ、1891年にはリサールをモデルとするフィリピン人「多加山峻(たかやまたかし)」(高山右近の子孫であるという設定)を主人公に虚実とり混ぜてフィリピン独立革命を描いたアジア主義的な政治小説『南洋之大波瀾』を発表した。この小説の結末は、多加山を指導者として独立を勝ち取ったフィリピンが、列強がひしめく国際情勢を考慮して日本による保護を求めてその属国となり、マニラに日の丸が翻るという、当時の(および末広自身の)アジア主義的風潮を反映したものとなっている(しかし現実のリサール自身は日本による独立支援に期待してはいなかった)。また、リサール処刑(奇しくも同じ1896年に末広鉄腸も病没している)後の1898年6月、日本でも山県悌三郎主催によるリサール追悼会が開かれている。
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