ヨゼフ・ケーニヒとは? わかりやすく解説

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ヨゼフ・ケーニヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 01:05 UTC 版)

ヨゼフ・ケーニヒ
生誕 (1874-09-24) 1874年9月24日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア王国プラハ
死没 (1932-12-05) 1932年12月5日(58歳没)
満洲国ハルビン
学歴 プラハ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリニスト
担当楽器 ヴァイオリン

ヨゼフ・バルタザール・ケーニヒドイツ語: Josef Baltasar König, 1874年9月24日[1][2]または1875年[3] - 1932年12月5日[3])は、プラハ出身の指揮者ヴァイオリン奏者。近衛秀麿とともに、新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)の指揮者を務めた。

出生から1926年まで

新交響楽団常任指揮者として

近衛秀麿が設立した新交響楽団の指揮者として、1927年4月から1929年4月まで在任した。在任時は、近衛が定期公演の指揮、ケーニヒがラジオ放送の指揮を主に担当した。

在任期間中は、楽団員を徹底的に鍛え上げ、現在のNHK交響楽団へ通じる高い演奏水準まで引き上げるとともに、スメタナ交響詩モルダウ』やラヴェルの『スペイン狂詩曲』、ベートーヴェン交響曲第9番のプロ団体による日本初演を手がけた。

新交響楽団退任後

1929年5月、東京市芝区三田南寺町の自宅で派出婦に「たわむれた」ところ、ケーニヒの内妻である日本人女性がこれに嫉妬し、派出婦会長を面罵したため、憤慨した派出婦会長が会の名誉のためにケーニヒを告訴[5]。この事件が「不良外人跋扈」と新聞に大きく書き立てられ[6]、日本政府から強制退去処分を受け、同年6月30日に日本から出国。満洲国ハルビン交響楽団の指揮者となった[7]1932年にハルビンで亡くなり[3]、哈爾浜カトリック墓地に埋葬された[1][2]

脚注

  1. ^ a b 「墓前に捧ぐ… こゝろの追悼歌 亡き楽友へ山田耕筰氏らが手向け」『満洲新聞』、1942年9月28日。
  2. ^ a b 岩野 1999, pp. 259–263, ロシアから日本へ、日本から満洲へ.
  3. ^ a b c コトバンク. ヨセフ・B. ケーニヒ.
  4. ^ a b 岩野 1999, pp. 46–52, 「日露交歓交響管弦楽演奏会」の衝撃.
  5. ^ 「フィルハーモニー」1929年8月号 白濱辰三「何がケーニヒ氏を帰国せしめたか。ケーニヒ氏帰国問題の真相」
  6. ^ 大野芳「近衛秀麿」p.171
  7. ^ 岩野 1999, pp. 64–69, ケーニヒ事件.

参考文献

先代
-
新交響楽団指揮者
1927年 - 1929年
次代
ニコライ・シフェルブラット



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