モレアス専制公領滅亡とコルフ島亡命
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「マヌエル・パレオロゴス」の記事における「モレアス専制公領滅亡とコルフ島亡命」の解説
マヌエルは1455年1月2日、モレアス専制公ソマス・パレオロゴスと、最後のアカイア公チェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリアの娘カテリーナ・ザッカリアの間の次男として生まれた。1453年5月29日にコンスタンティノープルが陥落し、叔父で最後の皇帝コンスタンティノス11世が戦死してビザンツ帝国が滅亡したが、モレアス専制公領はオスマン帝国のスルターンメフメト2世の属国として存続を許された。しかし密かにビザンツ帝国の復興を目指すソマスに弟のデメトリオスがオスマン帝国を後ろ盾にして反抗し、この兄弟争いにオスマン帝国が介入して1460年に専制公国を滅ぼした。ソマスやカテリーナ、それにマヌエルら子どもたちはコルフ島へ亡命した。ソマスは家族を置いてローマに赴き、ローマ教皇ピウス2世の歓待を受けた。ソマスはモレアス奪還の夢を持ち続け、ピウス2世が対オスマン十字軍を計画した際には自らイタリアをめぐり宣伝にあたったが、十字軍は実現しなかった。
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