ミロシュ・ヤケシュ
(ミロウシュ・ヤケシュ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 22:29 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2011年3月)
|
ミロシュ・ヤケシュ
Miloš Jakeš
|
|
---|---|
|
|
生年月日 | 1922年8月12日 |
出生地 | ![]() チェスケー・ハルピ |
没年月日 | 2020年7月10日(97歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | ソビエト連邦共産党中央委員会 高等学校 |
所属政党 | チェコスロバキア共産党 (1945年 - 1989年) |
称号 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
配偶者 | クヴェテナ・ヤケショバ (1943年 - 2013年) |
子女 | ミロシュ・ヤケシュ ルボミール・ヤケシュ |
|
|
在任期間 | 1987年12月17日 - 1989年11月24日 |
|
|
在任期間 | 1971年11月27日 - 1989年12月13日 |
ミロシュ・ヤケシュ(チェコ語: Miloš Jakeš[注釈 1], 1922年8月12日 - 2020年7月10日[1][2])は、チェコスロバキアの政治家、チェコスロバキア共産党書記長(1987年 - 1989年)。
来歴・人物
チェスケー・ブジェヨヴィツェ近郊のチェスケー・ハルピに生まれる。1937年から1950年までズリーンの靴工場で働き、その間、チェコスロバキア共産党に入党。1955年 - 1958年のモスクワ留学。1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻(プラハの春)後に始まった正常化体制で改革派のパージに積極的に関与した。
1987年12月、グスターフ・フサークの後任として党書記長に就任。自らを改革者と規定しつつも、反体制グループとの対話を一切拒否するなど強硬な姿勢を崩さなかった。1989年11月のビロード革命によって書記長を辞任。2003年に1968年の軍事侵攻でソ連軍と共謀し、革命労農政府樹立を企図した嫌疑で裁判にかけられた。
2020年7月10日金曜日、死去[1]。
脚注
注釈
- ^ 一般にはミロシュ(Miloš)で知られているが、正しい表記はミロウシュ(Milouš)であることが2003年の裁判中に明らかになった。
出典
- ^ a b “Zemřel Miloš Jakeš, bylo mu 97 let” (チェコ語). e15.cz (2020年7月14日). 2025年7月10日閲覧。
- ^ “元共産党書記長のヤケシュ氏死去/チェコ、ビロード革命で辞任”. 四国新聞社 (2020年7月15日). 2025年7月10日閲覧。
|
|
固有名詞の分類
- ミロシュ・ヤケシュのページへのリンク