マンモス校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:08 UTC 版)
「四日市市立富洲原小学校」の記事における「マンモス校時代」の解説
全盛期の児童数がいた昭和一桁世代から団塊の世代までが在籍した戦中・戦後期(昭和20年代 - 昭和30年代)は以下の児童数であった。 昭和22年度生まれは団塊の世代であった事から、男子201人 女子197人 学年の合計は398人であった。 昭和23年度生まれは団塊の世代の第1次ベビーブームであった事から、男子180人 女子173人 学年の合計が約353人であった。 昭和24年度生まれは団塊の世代であった事から、男子174人 女子166人 学年の合計が340人であった。以上が団塊の世代のベビーブームによるものである。 しかし、優生保護法が成立した1950年(昭和25年)には中絶が合法化された事で出産数が減少した。ポスト団塊世代の昭和25年度生まれは、男子126人 女子140人 学年の合計が266人であった。 昭和26年度生まれは、男子136人 女子130人 学年の合計が266人であった。 昭和27年度生まれは、男子106人 女子117人 学年の合計が223人であった。 四日市市立富洲原小学校の合計児童数が1846人で尾鷲市立尾鷲小学校に次ぐ三重県第2位の生徒数の多さであり、全盛期の富洲原地区は人口が多かった。三重県第2位の7クラス300人以上の児童数がいた。富洲原小学校は三重県第2位の規模のマンモス校だった。
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