ブライアン・エプスタインの死
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「ビートルズの解散問題」の記事における「ブライアン・エプスタインの死」の解説
1967年8月27日、マネージャーでもあったエプスタインが自宅の寝室で死亡しているのが発見された。死因は睡眠薬の過剰摂取によるものと言われている。一説によると、ビートルズのライブ活動終了により自分の役割の多くを失ってしまったこと、自分が育てたはずのビートルズが自分の手の届かない存在になってしまったという疎外感から自殺したのではないかと言われているが、真相については不明のままである。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた。 取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時ヒット曲の量産により発言力のあったマッカートニーが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『マジカル・ミステリー・ツアー』セッションで明らかである。マッカートニーは必死にグループを存続させようと努力するが、周囲には身勝手と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたハリスンとの不仲が次第に顕在化し始める。ホワイトアルバム制作のころには、作曲者とその手伝いをする伴奏者というところまで来てしまった。更には、「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」をレコーディング中、マッカートニーがスターのドラミングにクレームを付け、スターが激怒しセッションを離脱。2週間ほどスター不在のままレコーディングが行われることとなった。 レノンは1970年に『ローリング・ストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であるとし、「ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはポールのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ポールは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」と語った。
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