フェルナンド・ポーとは? わかりやすく解説

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フェルナン・ド・ポー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/31 21:23 UTC 版)

フェルナン・ド・ポー[1]ポルトガル語: Fernão do Pó)は、15世紀ポルトガル船乗りである[2]大航海時代ギニア湾を探検し、ヨーロッパ人で初めてビオコ島(旧称フェルナンド・ポー島)に到達したことで知られる[3][4][5]

人物

フェルナン・ド・ポーの生涯について、わかっていることはほとんどない[6]ポルトガル王アフォンソ5世との契約で、ギニア湾交易の利益を独占し、ポルトガルのアフリカ探検の出資者となったリスボン商人フェルナン・ゴメス英語版に雇われてアフリカ中西部を探検した船長の一人で、同じように探検を行った船乗りには、ペロ・デ・シントラ英語版ペロ・エスコバル英語版ジョアン・デ・サンタレン英語版ロポ・ゴンサルベス英語版などがいる[7][8]。これらの船長たちは、探検の記録を残しておらず、ポルトガル王室直轄の事業でなくなったことで宮廷史家による記録も途絶えたため、ゴメスが雇った船乗りたちについての情報はほとんど伝わっていない[7]

ビオコ島(旧フェルナンド・ポー島)。

ポーはおそらく1472年頃、アクシム英語版からエルミナを経て、海岸に沿って東へ航行し、ベニン湾に到達した[7][8]。更に東へ進み、ニジェール・デルタを回ったところで、大きなをみつけ、その島にフォルモサ島(「美しい島」の意味)と名付けた[8][4]。ボニー湾(ビアフラ湾英語版)で、大陸の海岸線が南へ折れてその果てがわからないため、求めていたインド諸島への航路が開けていないと悟ったポーは、ここまでの成果を報告するためポルトガルへ帰った[8]。その後、探検を完遂すべく何度かギニア湾に戻ってきたが、そのうちにおそらくフォルモサ島で亡くなったと考えられている[8]

地名

ポーが到達したフォルモサ島は、その後ポーを記念してフェルナンド・ポー島と名を変え、赤道ギニア独立後に再び名を変えるまで、その名で呼ばれていた[3][8][2]

ポーはまた、ウーリ川河口湾に棲む甲殻類の多さに驚いて、ウーリ川を「エビの川」(Rio dos Camarões)と名づけ、これがカメルーンという名前の元になったとされる[9][1]

出典

  1. ^ a b 牧英夫『国名の由来物語』自由国民社東京都中央区、1981年3月20日。doi:10.11501/12148665 
  2. ^ a b “Equatorial Guinea”, Columbia Electronic Encyclopedia (6 ed.), (2021) 
  3. ^ a b Prothero, G. W., ed. (1920-01), The formation of the Portuguese colonial empire, London: H. M. Stationery Office, https://tile.loc.gov/storage-services/service/gdc/gdclccn/a2/20/00/97/2/a22000972/a22000972.pdf 
  4. ^ a b Harrison-Church, Ronald James (2023-08-03), “history of Equatorial Guinea”, Encyclopædia Britannica, https://www.britannica.com/topic/history-of-Equatorial-Guinea 2024年8月30日閲覧。 
  5. ^ カースルレイ 1975, p. 188.
  6. ^ Bontinck, François (1976-09), “Le Zaïre «decouvert» avant Diogo Cão?”, Africa: Rivista trimestrale di studi e documentazione dell'Istituto italiano per l'Africa e l'Oriente 31 (3): 347-366, JSTOR 40758629, https://jstor.org/stable/40758629 
  7. ^ a b c カースルレイ 1975, pp. 70–71.
  8. ^ a b c d e f Bouchaud, J. (1946-10), “Les Portugais dans la Baie de Biafra au XVIème Siècle”, Africa 16 (4): 217-227, doi:10.2307/1156608 
  9. ^ Fon, Nguh Nwei Asanga (2023-10-18), “The “Kamerun Idea”: E pluribus unum Cameroon”, Nationalities Papers (First View): 1-23, doi:10.1017/nps.2023.73 

参考文献

関連項目

外部リンク




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