ビザ発給拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:55 UTC 版)
国際交流基金の援助で、1981年の1月から10月までオーストラリアのメルボルンのラトローブ大学とモナシュ大学に客員教授として招聘されていたが、日本政府から旅券は発給されたにもかかわらず出発直前になってオーストラリア政府から日高夫妻のビザの発給を拒否された。原因は、1974年にパリの日高夫妻の邸宅で日本赤軍のメンバーが会議を開いたという噂があり、それに関与した疑いで夫人がフランス警察に取り調べられたことによる。後日疑いは晴れて釈放された。日高が日本に帰国中の出来事だった。 1981年7月28日付けのジョン・メナデュー(オーストラリア移民省次官)による日高宛の書簡では、入国拒否の理由は日本赤軍との関係であると説明されていた。1981年12月2日のオーストラリアン紙に掲載されたインタビューでイアン・マクフィー(移民相)は、黒田瑞夫(駐オーストラリア大使)が日高氏を入国させることはありえないことだと述べたと語った。 このビザ発給拒否問題については日豪両国の多数の知識人から政府に抗議があり、日高本人には2年半後、妻には5年半後にビザは発給された。
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