パウルブライトナーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > パウルブライトナーの意味・解説 

パウル・ブライトナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/04 16:42 UTC 版)

パウル・ブライトナー
2011年のブライトナー
名前
愛称 狼男
ラテン文字 Paul Breitner
基本情報
国籍 ドイツ
生年月日 (1951-09-05) 1951年9月5日(73歳)
出身地 コルベルモール
身長 176cm
体重 73kg
選手情報
ポジション MF/DF
利き足 左足
ユース
1957-1961 SV-DJKコルベルモール
1961-1970 ESVフライラッシング
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1970-1974 バイエルン・ミュンヘン 109 (17)
1974-1977 レアル・マドリード 84 (10)
1977-1978 アイントラハト・ブラウンシュヴァイク 30 (10)
1978-1983 バイエルン・ミュンヘン 146 (66)
通算 369 (103)
代表歴
1968-1970 西ドイツユース 16 (1)
1971  西ドイツ U-23 1 (0)
1971-1982 西ドイツ 48 (10)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パウル・ブライトナーPaul Breitner1951年9月5日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・コルベルモール出身の元サッカー選手。元西ドイツ代表。ポジションはミッドフィールダー、またはディフェンダー

1981年度バロンドールの投票ではカール=ハインツ・ルンメニゲに次いで2位に選ばれた[1]

経歴

現役時代(1982年)

主に左サイドバックを担当。所属クラブや西ドイツ代表では若い頃から中心選手として活躍していた。1974年の1974 FIFAワールドカップでは1次リーグのチリ戦、2次リーグのユーゴスラビア戦でそれぞれ1ゴール[2]、決勝では0-1とオランダにリードされた場面で得たPKを決め、チームは優勝を果たした。1975年10月のギリシャ戦を最後に個人的な理由から代表を退いていたが、1981年4月オーストリア戦で約8年振りに代表複帰、1982年のスペインW杯直前に西ドイツ代表に復帰すると、主将としてチームを決勝まで導いた。決勝のイタリア戦で1ゴールを挙げたが[2]、1-3と敗れた。

また、出場した2つの異なるワールドカップ決勝でゴールを決めている数少ない選手であり、これを達成した選手はブライトナーを除いてババペレジネディーヌ・ジダンキリアン・エムバペの4選手しかいない。

天然パーマに髭を生やした厳つい風貌、天邪鬼な性格、政治に強い関心を持ち「愛読書は毛沢東語録」と公言する異端さで知られた。

2007年よりFCバイエルン・ミュンヘンの主に選手移籍などを担当する顧問として活躍している。

タイトル

クラブ

バイエルン・ミュンヘン
レアル・マドリード

代表

西ドイツ

脚注

  1. ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
  2. ^ a b Breitner National team”. www.transfermarket. 25 January 2021閲覧。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

パウルブライトナーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パウルブライトナーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのパウル・ブライトナー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS