バウンティ号その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/10 20:06 UTC 版)
「ピトケアン諸島の歴史」の記事における「バウンティ号その後」の解説
バウンティ号のクルーはその後3つのグループに分かれた。このうちタヒチに戻った水兵たちはさらにピトケアン島に流れ着いた者とタヒチに居着いた者に分かれた。もう一つは反乱に敗れて船を追い出された艦長達である。 まず、タヒチに戻った後、さらに太平洋の東を目指してバウンティ号の進路を向けたグループがあった。このグループはフレッチャー・クリスチャンをはじめとする9名と伝えられている。その他にもタヒチの現地住民男女合わせて16名、その他食料となりそうな植物などをバウンティ号に乗せて東へ進路を取った。彼らがピトケアン島に流れ着いたのは1790年であったとされる。そこでバウンティ号を処分して、自給自足の生活をはじめた。彼らこそが現在のピトケアン島の住民の祖先である。彼らがこうした行動を取ったのは、イギリスに逮捕されて処刑されるのを防ぐためである。実際、次のグループの中には処刑された者もいたので、この目的は達成されたといえよう。 次に、クリスチャンのグループに加わらずタヒチに残留したグループである。彼らはタヒチの統一運動に加わり、タヒチ統一に貢献している。しかしその後、1791年にイギリス海軍がタヒチにやってきて彼らを捕縛、イギリス本国に送還し、うち3名が処刑になっている。 最後に、太平洋のど真ん中で放り出されてしまったバウンティ号の艦長ら十数名であるが、1ヶ月半以上太平洋を漂流した挙句、奇跡的にオランダ領東インド(現在のインドネシア)に流れ着くことができた。その後、彼らは母国イギリスに無事帰還している。
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