ハンガリー・アンジュー家の断絶
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「ハンガリー・アンジュー朝」の記事における「ハンガリー・アンジュー家の断絶」の解説
ラヨシュ1世は1382年に死去し、王国は年長の娘マーリアが継承する。これに対して、ハンガリーとの連合を嫌うポーランド貴族は、マーリアの妹ヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王として同君連合を解消する。他方、ハンガリー国内でもマーリアの即位を巡って貴族間で抗争が勃発する。これを好機と見たナポリ王カルロ3世はハンガリーに軍を進め、1385年にカーロイ2世として即位するが、翌1386年に暗殺された。その後いくつかの段階を経て、マーリアが許婚であるルクセンブルク家出身(神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の子)のジグモンド(ジギスムント、後の神聖ローマ皇帝)と共同でハンガリーを治めることになった。マーリアは夫との間に子をもうけることなく1395年に没し、ポーランドを相続した妹ヤドヴィガも夫との間に子をもうけることなく死去した。アンジュー家による東欧支配は女系の血統でも続かずに終焉を迎えた。
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