ハワイ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:55 UTC 版)
「ローレンス・カーニー」の記事における「ハワイ問題」の解説
清からの帰途の1843年7月、カーニーはハワイに立ち寄った。それに先立つ1843年2月13日、英国フリゲート・キャリスフォート(HMS Carysfort)の艦長であるポーレット卿(Lord George Paulet)は艦砲射撃の威嚇を加え、ハワイを英国に割譲するよう要求した。国王カメハメハ3世は流血を嫌い、割譲することに合意していた。この行為はポーレットの独断であり、カメハメハ3世は英国政府とポーレットの上司であり、英国の太平洋地域での最高指揮官であるトーマス少将に正式な抗議文を送っていた。すでに本国政府は併合を拒否していたが、カーニー到着時には、まだ拒絶の知らせはハワイには届いていなかった。カーニーは断固たる抗議を実施し、米国の代表も加えて、ハワイと英国の代表が問題を解決するまで、併合を認めないと述べた。あわや米英間の国際紛争になりかけたが、トーマス少将が2週間後に「併合拒否」の報告を持って到着し、7月31日にハワイの独立は回復された。 帰国後、カーニーはノーフォーク海軍工廠長およびニューヨーク海軍工廠長を務め、1861年11月14日に退役した。生誕地であるパースアンボイで1868年11月29日に死亡した。
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