撫養城
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模擬天守(旧鳥居記念博物館)
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別名 | 岡崎城、林崎城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし (望楼型3層3階模擬・昭和40年(1965年)) |
築城主 | 小笠原氏? |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 小笠原氏?、四宮氏、真下飛騨守、益田正忠、蜂須賀氏など |
廃城年 | 寛永15年(1638年) |
遺構 | 曲輪、石垣 |
指定文化財 | 市史跡 |
位置 | 北緯34度10分39.8秒 東経134度37分7.1秒 / 北緯34.177722度 東経134.618639度座標: 北緯34度10分39.8秒 東経134度37分7.1秒 / 北緯34.177722度 東経134.618639度 |
地図 |
撫養城(むやじょう)は、徳島県鳴門市撫養町林崎にある日本の城跡。別名は岡崎城、林崎城。「岡崎城跡」として市指定史跡に指定されている。
概要
築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない[1]。
戦国時代後期、撫養城は三好氏の配下の四宮氏が城主であったが、天正10年(1582年)、長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を落城させた[1]。その後、長宗我部元親の配下である真下飛騨守同城を守備する[1]。しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐により、豊臣軍が攻めてくると落城した[1]。四国征伐後、蜂須賀家政が阿波の新領主となると、蜂須賀氏の居城・徳島城の支城を9城置くことにし、撫養城はその一つに選ばれ、蜂須賀家臣で家政の叔父にあたる益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた(阿波九城)[1][2]。
元和元年(1615年)に発令された一国一城令では廃城とならなかったが、寛永15年(1638年)に発令された一国一城令により、廃城となった[1]。
現在の遺構
曲輪や石垣の跡が残っている。城跡のある妙見山は妙見山公園として整備されており、天保元年(1830年)に建てられた妙見神社や、頂上近くには三層の模擬天守が建てられている(本来の撫養城には天守は無かった)[1][2]。
天守内部は徳島県立鳥居記念博物館(鳴門市出身の人類考古学者、鳥居龍蔵の業績を記念した博物館)となっていたが2010年(平成22年)11月に徳島県文化の森総合公園へ移転した[1]。
2016年(平成28年)3月より旧徳島県立鳥居記念博物館を地域の交流施設であるトリーデなるととしてリニューアルオープンした[1]。
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トリーデなると
脚注
関連項目
外部リンク
- トリーデなると|渦の国 鳴門|
- 鳴門市役所文化財 - ウェイバックマシン(2015年6月28日アーカイブ分)
固有名詞の分類
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