セザール・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)とは? わかりやすく解説

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セザール・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 03:03 UTC 版)

セザール・ド・ブルボン=ヴァンドーム
César de Bourbon-Vendôme
ヴァンドーム公
在位 1598年 - 1665年

称号 ボーフォール公
エタンプ公
パンティエーヴル公
出生 (1594-06-03) 1594年6月3日
フランス王国、クシー城
死去 (1665-10-22) 1665年10月22日(71歳没)
フランス王国パリ
配偶者 フランソワーズ・ド・ロレーヌ
子女 ルイ2世
フランソワ
エリザベート
家名 ブルボン家
父親 フランス王アンリ4世
母親 ガブリエル・デストレ
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セザール・ド・ブルボン=ヴァンドームCésar de Bourbon-Vendôme, 1594年6月3日 - 1665年10月22日)は、ブルボン朝フランスの貴族。

生涯

ヴァンドーム公セザール

アンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレの長男として、クシー城で誕生した。1595年に認知され、1598年にヴァンドーム公位を授けられた。1599年に母ガブリエルが急死すると、母からボーフォール公位とエタンプ公位を継承した。

1608年7月16日、フォンテーヌブロー宮殿で、富裕で知られたメルクール及びパンティエーヴル公家相続人のフランソワーズと結婚。3子をもうけた。

セザールは、人生の多くを継母で父の正妻マリー・ド・メディシスと異母弟ルイ13世との政争に費やした。リシュリューの失脚を狙うシャレー伯アンリ・ド・タレイラン=ペリゴールの陰謀に加担したとみなされ、実弟アレクサンドル(シュヴァリエ・ド・ヴァンドームフランス語版)と共に1626年、ヴァンセンヌ城に幽閉された。4年後の1630年に釈放されるとオランダへ亡命した。

1632年にフランスへ戻り、次男のフランソワと共にリシュリューの後を継いだジュール・マザランに対する陰謀を企てた。が、再び亡命を図りイングランドへ逃亡し、1642年までイングランドに留まった。マザランの姪にあたるロール・マンチーニマンチーニ姉妹の長女)と長男ルイが結婚したことでマザランとの和解がなされ、フロンドの乱の際には王太后アンヌ・ドートリッシュを支えた。1651年に提督となった。1665年の死後、ルイがヴァンドーム公位を、フランソワがボーフォール公位をそれぞれ継いだ。

セザールの屋敷があった場所は後に買収され、ヴァンドーム広場として整備された。

先代
(王領)
ヴァンドーム公
1598年 - 1665年
次代
ルイ2世
先代
ガブリエル・デストレ
エタンプ公
1599年 - 1665年
次代
ルイ2世
先代
ガブリエル・デストレ
ボーフォール公
1599年 - 1665年
次代
フランソワ
先代
フランソワーズ・ド・ロレーヌ
パンティエーヴル公
1608年 - 1665年
フランソワーズ・ド・ロレーヌと共治
次代
ルイ2世



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