ストリートへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 14:54 UTC 版)
「ロドニー・ミューレン」の記事における「ストリートへ」の解説
1990年頃にフリースタイルスケートが衰退し、彼もストリートに活路を求めていくことになる。1991年にマイク・タナスキーが立ち上げたPlan Bに加わる。タナスキーはワールド・インダストリーズのサン・ディエゴでのマーケティングを担当していた人物で、ペラルタやロッコの指導でも出来なかった、ロドニーのストリートスタイルへの順応に積極的に取り組んだ。その結果、ロドニーが見せたスケーティングは、フリースタイルとストリートの融合した新境地とも言える見事なものだった。オーソドックスなストリートトリックに独自の解釈を加え、またトリプルキックフリップ、キックフリップ・アンダーフリップ、キャスパースライドなどの極めて難易度の高いトリックを見せた。この影響により、ストリートスケートにもテクニカルな方向性がはっきりと示されることとなった。彼の代名詞の一つとも言える特徴的なトリック、ダークスライドが編み出されたのもこの頃である。 1993年、タナスキーが交通事故で急死。ロドニーは自らのスケートを進化させたタナスキーを恩人として慕っていた為、大きなショックを受けたが、やがて自らのチームA-teamを立ち上げてPlan B及びワールド・インダストリーズを離脱。Plan Bはチームメンバーだったコリン・マッケイとダニー・ウェイに譲渡された(数年で消滅し、2005年に復活)。Plan Bには他にもマイク・キャロルやリック・ハワードといった錚々たるスケーターが揃っていたが、彼らもGirlなどのチームを作り独立していく。 A-teamは数年で解散してしまうが、この時の多くのメンバーとは高い評価を得た「Globe - Opinion」で後に競演。また、デーウォン・ソンとの3本の「vs.」シリーズも人気を得た。特に1990年代後半からの各作品において、長年培ってきたテクニックの集大成とも言える驚異的なスケーティングを見ることができる。 2000年、A-teamのメンバーだったマーク・ジョンソンのEnjoiに参加するもしばらくして離脱。
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