ジョージ・アーネスト・モリソンとは? わかりやすく解説

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ジョージ・アーネスト・モリソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/02 16:39 UTC 版)

ジョージ・アーネスト・モリソン

ジョージ・アーネスト・モリソン(George Ernest Morrison、1862年2月4日 - 1920年5月30日)は、オーストラリア出身の旅行家、冒険家、『タイムズ』特派員、図書収集家である。中国名 莫理循(バクリジュン)。

生涯

ビクトリア州ジーロング生まれ。メルボルン大学を卒業し、イギリスに行き、1887年、エジンバラ大学で医学を学び、モロッコの侍医となり、オーストラリアに帰国した。1882年から1883年にかけてオーストラリア、カーペンタリア湾からメルボルンを徒歩で縦断したことがある。

1893年、中国に行き、1894年、上海からラングーンまで、1896年、盤谷から雲南府に、1897年、満州を横断し、ストレチェンスク[1]からウラジオストックまで旅行した。1895年、『タイムズ』通信員となり、1897年以降、北京に駐在し、1900年、義和団の乱に遭った。1905年、旅順乃木希典の入城式に列して、また『タイムズ』代表としてポーツマス会議に出張した。

1907年からふたたび旅行を始め、北京からフランス領ベトナムに行き、1910年には北京から洛陽新疆を経てパミール高原を越えて、トルキスタンまで横断した。日本には三たび来た。1912年『タイムズ』を辞め、中華民国総統府政治顧問となる。1919年パリ講和会議に中国代表に伴い訪欧したが、病気になりイギリスで死去した。58歳没。

中国滞在20年の間に極東に関する欧文文献を収集し(「モリソン文庫」と称された[2])、1917年、岩崎久弥に買い取られ、後の東洋文庫[3]形成した。

著書

参考文献

脚注・出典

  1. ^ 現スレチェンスク(スレチエンスク)。かつてはストレチェンスクとも呼ばれていた / 「はじめに」の注8:市崎謙作 (2009年12月10日). “クラスノヤルスクの榎本武揚”. 愛知県立大学外国語学部 おろしゃ会 home page. 2023年10月9日閲覧。
  2. ^ モリソン、ジョージ・アーネスト 略歴
  3. ^ 東洋文庫 / 沿革
  4. ^ モリソンの世界旅行(第6回)

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