ジョン・ウィルクスの当選
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「オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)」の記事における「ジョン・ウィルクスの当選」の解説
1768年2月には大陸亡命中だったジョン・ウィルクスが帰国し、3月の総選挙に出馬して当選したが投獄されたため、ウィルクス釈放運動が再燃した。 1769年2月の庶民院はグラフトン公爵らの働きかけによりウィルクスを議員から除名する決議をしたが、民衆のウィルクス支援熱は収まらず、補欠選挙でウィルクスを再選させた。庶民院での除名と補欠選挙での再選が2回繰り返された後、庶民院は選挙に介入してウィルクスを落選処分とした。 しかしこれは国制問題となり、議会内の野党勢力であるロッキンガム侯爵派やチャタム伯爵派、グレンヴィル派もウィルクス運動と連携を図るようになった。これにグラフトン自身の女性問題(#私生活を参照)や1769年末にチャタム伯爵が回復して登院してきたことが加え、1770年1月には閣僚からも野党側に同調する造反者が出るに至った。これが原因で総辞職に追い込まれた。 大蔵大臣のノース卿フレデリック・ノースが代わって組閣の大命を受けた。
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