ジャンヌ伯妃の徹底抗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 07:53 UTC 版)
「ブルターニュ継承戦争」の記事における「ジャンヌ伯妃の徹底抗戦」の解説
しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌ(英語版)は女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ジャンヌはブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して、西ブルターニュのエンヌボンに籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士とともに包囲を突破してブレストに行き、援軍を引き連れて再びエンヌボンの包囲を突破し、城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウィリアム、サー・ウォルター・マーニーの援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。 イングランド軍のカレー侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側に就いていたロベール3世・ダルトワ(母がブルターニュ公家出身)が戦死している。
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