ジェームス・サマーズとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジェームス・サマーズの意味・解説 

ジェームス・サマーズ

(ジェイムズ・サマーズ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/23 02:01 UTC 版)

ジェームス・サマーズ(James Summers、1828年7月5日 - 1891年10月26日)は、明治時代にお雇い外国人として来日したイギリス教育者東洋学者である。姓はサンマースとも表記される。漢字表記は佐麻須。

経歴・人物

イングランドスタフォードシャー州リッチフィールド,バード通りに貧しい左官の一人っ子として生まれた。父はすぐに家を出てしまったと思われ,幼少期は母一人に育てられた。その間,バード通りからリッチフィールド大聖堂構内に引っ越している。1844年9月,16才でリッチフィールド教区教師養成学校に36番目の生徒として入学,1845年11月に卒業して,同州ストーク・アポン・トレントの国民学校教師として赴任した。同地で母を亡くしている。1848年2月以前にはサマーズの香港着任は決定していた。同地司祭だったヴィンセント・ジョン・スタントンが英中学校の開校を予定しており,サマーズはその教師として赴任することになったのである。同校は同年9月,サマーズの到着を待ち,現在ビショップズ・ハウスの立つ場所に開校した。その後,香港主教としてジョージ・スミスが着任すると英中学校はスミスに移管されて1850年4月8日にセント・ポールズ・カレッジとして再開校,サマーズは3人の教師のうちの1人として教鞭を執った。同年夏のカレッジ辞職後は沖縄を経て上海に渡り,同地の米国プロテスタント監督教会司教ウィリアム・ジョーンズ・ブーンの学校で,その後は国教会上海司祭のジョン・ホブソンの学校で教鞭を執ったが1852年1月には辞職,春に上海を発って帰国の途に就いた。香港では広東語で,上海では上海語で中国人に教えている。[1]

1873年明治6年)、岩倉具視からの依頼により家族とともに来日し、東京開成学校(現在の東京大学)で同僚のウィリアム・グリフィスと共にウィリアム・シェークスピアジョン・ミルトン等の著名な作家を主題とした英文学倫理学の教鞭を執った。また、岡倉天心井上哲次郎等多くの有名な学者を輩出した。

その後、新潟及び大阪の英学校、札幌農学校で教鞭を執り、東京に戻り1884年(明治17年)には築地で夫人と共に欧文正鵠学館を創設した。1890年(明治23年)一旦帰国するが、翌年日本で病死し、横浜外国人墓地に密葬された。

イングランドで一度結婚したが,後に共に来日することになるエレンと同居するようになった。「英語の母」として戦後まで東京の市井に英語を教え続けたリリー・サマーズはエレンの連れ子である。[1]

出典

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b Akaishi, K. (2021). “The Early Life of James Summers: How He Became an English Teacher in Japan”. 英学史研究 54: 1-25. 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ジェームス・サマーズのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジェームス・サマーズ」の関連用語

ジェームス・サマーズのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジェームス・サマーズのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジェームス・サマーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS