コンスタンチン・シーモノフとは? わかりやすく解説

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シーモノフ【Konstantin Mikhaylovich Simonov】

読み方:しーものふ

[1915〜1979ソ連小説家・劇作家詩人。常に時代即した国際的なテーマ取り上げた小説夜となく昼となく」、戯曲ロシア人々」など。


コンスタンチン・シーモノフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 03:08 UTC 版)

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コンスタンチン・シーモノフ
Константин Симонов
誕生 コンスタンチン・ミハイロヴィッチ・シーモノフ
Константин Михайлович Симонов
(1915-11-28) 1915年11月28日
ロシア帝国ペトログラード
死没 (1979-08-28) 1979年8月28日(63歳没)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
職業 作家
サイン
ウィキポータル 文学
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コンスタンチン・ミハイロヴィッチ・シーモノフ (ロシア語: Константи́н (Кири́лл) Миха́йлович Си́монов, ラテン文字転写: Konstantin Mikhailovich Simonov, 1915年11月28日(ユリウス暦11月15日) - 1979年8月28日)は、ソ連作家

生涯

1915年にロシア帝国ペトログラードで生まれる[1]。父ミハイル・アガファンゲロヴィッチ・シーモノフは帝政軍の士官でロシア革命後、国外に移り、ポーランドで客死している。母アレクサンドラ・レオニードヴナ・オボレンスカヤはリューリク朝の流れをくむオボレンスキー家の公女。

リャザンサラトフで育つ。1931年に家族はモスクワに移る。それから精密工学を学び、1935年まで工場に勤めた。1936年、文芸誌に詩を発表。1938年にモスクワにあるゴーリキー文学大学を卒業。その後、従軍記者として各地の戦線に赴き、ユーゴスラビアルーマニア、ポーランド、ブルガリアドイツなどを訪れた。

戦時中に小説『昼となく夜となく』、戯曲『ロシヤの人々』などの文学作を発表し、絶賛された。戦後も創作意欲は旺盛であり、戯曲『プラーグの栗並木の下で』、戯曲『ロシヤ問題』を発表。また、エッセイ『ユーゴスラヴィアの手帖』を書き下ろした。長きにわたって文芸雑誌『新世界』や週刊紙『文学新聞』の編集長を務め、ソビエト連邦作家同盟の要職に就いた。社会主義労働英雄赤旗勲章祖国戦争勲章レーニン賞レーニン勲章スターリン賞など幾多に登る賞を受賞。1979年、モスクワで死去[2]

邦訳

出典

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