コンスタンス・ダルルとは? わかりやすく解説

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コンスタンス・ダルル

(コンスタンス・ド・プロヴァンス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 08:02 UTC 版)

コンスタンス・ダルル
Constance d'Arles
フランス王妃
在位 1001年 - 1031年

出生 986年
アルル王国アルル
死去 1032年7月25日
フランス王国ムラン
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
結婚 1001年
配偶者 フランス王ロベール2世
子女 アデライード
ユーグ
アンリ1世
アデル
ロベール1世
ウード
コンスタンス
家名 プロヴァンス家
父親 プロヴァンス伯ギヨーム1世英語版
母親 アデライード・ダンジュー
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コンスタンス・ダルルConstance d'Arles, 986年 - 1032年7月25日)は、フランス王ロベール2世の3番目の妃。

コンスタンス・ド・プロヴァンスConstance de Provence)とも呼ばれる。

略歴

父はアルル伯およびプロヴァンス伯ギヨーム1世英語版、母はその2番目の妻でアンジュー伯フルク2世の娘のアデライードである。苛烈な性格をしていたといわれ、夫とも宮廷とも不和であった。

1031年、夫ロベール2世が死去し、次男アンリ1世が単独の王となったが、コンスタンスは息子たちの中ではアンリよりも他の息子3男ロベールと4男ウードを愛し、2人の息子に反乱を起こさせた。アンリ1世はロベールにブルゴーニュ公位を与えることでこれを鎮めた[1]。しかし、持参金としての領地を自領扱いとしたため、アンリだけでなくロベールとも不和となって戦いに発展し、息子たちに投降することになった[2]

1032年、ムランで死去した。

子女

1001年にロベール2世と結婚し、7人の子をもうけた。

脚注

  1. ^ レジーヌ・ペルヌー 『中世を生きぬく女たち』 白水社、1988年、p. 288。
  2. ^ 柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年




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