コシチュシュコ捕縛と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:26 UTC 版)
「コシチュシュコの蜂起」の記事における「コシチュシュコ捕縛と敗北」の解説
その間に、ロシアはアレクサンドル・スヴォーロフ率いる増援をワルシャワ付近にいるフェルセン軍のもとに送った:204。9月17日の クルプチツェの戦いと19日のテレスポルの戦いで勝利したロシア増援軍は、ワルシャワに向けて進軍を始めた:205。ロシア軍の合流を阻止するべく、コシチュシュコとシェラコフスキ将軍はワルシャワから2部隊5000人を率いて出撃した。10月10日、彼らはマチェヨヴィツェで1万4000人のフェルセン軍と対峙した:205–207。このマチェヨヴィツェの戦いで、コシチュシュコは負傷してロシア軍の捕虜となり、サンクトペテルブルクに送られた:209。 コシチュシュコの跡を継いだトマシュ・ヴァヴジェツキは反乱軍内部の権力闘争を統御できず弱体な一部隊の指揮官に成り下がってしまい、政治的主導権はユゼフ・ザヨンチェクに握られた:210。彼もまた左派のポーランド・ジャコビン派から右派の王党派貴族にまで至る集団内の不一致に対処しなければならなかった。 増援軍との合流を果たしたロシア軍は、11月4日にワルシャワ郊外で行われたプラガの戦いでポーランド軍と衝突した。4時間に及んだ残酷な白兵戦の末、2万2000人のロシア軍はポーランド守備隊を破った。スヴォーロフは、コサック兵にワルシャワの略奪と放火を許可した。:210。このプラガ虐殺で約2万人のポーランド人が殺された:211。ザヨンチェクは負傷し、ポーランド軍を捨てて逃亡した:195。 11月16日、ヴァヴジェツキはラドシツェ付近でロシア軍に降伏し、ここにコシチュシュコの蜂起は終結した。反乱を経てポーランド国家は完全に崩壊し、翌1795年にオーストリア、ロシア、プロイセンによる第三次ポーランド分割が実施された。
※この「コシチュシュコ捕縛と敗北」の解説は、「コシチュシュコの蜂起」の解説の一部です。
「コシチュシュコ捕縛と敗北」を含む「コシチュシュコの蜂起」の記事については、「コシチュシュコの蜂起」の概要を参照ください。
- コシチュシュコ捕縛と敗北のページへのリンク