クレージー・ウエストからマウンテン・プレイボーイズまで
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「寺内タケシ」の記事における「クレージー・ウエストからマウンテン・プレイボーイズまで」の解説
寺内は、大学在学中から早くもプロとして活動した。米軍キャンプで演奏し、ミッキー・カーチスと出会ったのを機に彼のウエスタン・バンド「クレージー・ウエスト」に参加。寺内の加入後に他のメンバー全員が脱退したため、新メンバーを集め復活。札幌のジャズ喫茶での公演前に岩倉忠が入院したため、代わりのベーシストとして碇矢長一(後のいかりや長介)を採用した。これが当時ロカビリーをやっていた碇矢のウエスタンへの転身だった。 その後、米軍上瀬谷キャンプでジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのベースをしていた碇矢と再会して、寺内も移籍したが、やがて時田からクビを宣告される。しかしこれは、この頃ブームになっていたロカビリーに参入するため、この時の事務所「東京ハワイアンズ」の作戦で、寺内は1962年8月、ほりまさゆきがヴォーカルを担当するロカビリーバンド「寺内タケシとブルー・ジーンズ」を結成。
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