クルク・カアンの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:48 UTC 版)
1307年(大徳11年)にはオルジェイトゥ・カアンが病死し、モンゴル高原の諸王侯の支持を受けたカイシャンがクルク・カアンとして即位した。クルク・カアンは最も信頼おける部下としてオチチェルにアルタイ方面駐屯軍の地位を委ね、和林行省右丞相の職を与えた。オチチェルは同年、旧カイドゥ・ウルスの残党であるチャパル、トゥクメらが未だ辺境の脅威となっていること、またカイドゥ・ウルスから多数の投降将兵が移住してきたことでモンゴル高原には牧地が不足していることを述べ、オチチェル自らアルタイ山を越えたジュンガル草原に駐屯しすることで残党軍を威聴し、また元々の駐屯地を投降将兵に分け与えようと進言した。オチチェルの進言を聞いたクルク・カアンは最善の策であると褒めたたえ、この政策が実行された結果チャパルらは行き場を失いついに投降するに至った。 クルク・カアンは多くの将兵の中でもオチチェルを国の元老として最も信任し、本来は皇族・附馬などにしか与えられない王号(淇陽王位)を授与し、クルク・カアンの治世を通じてオチチェルの一族は繁栄した。1311年(至大4年)、クルク・カアンが急死すると弟で皇太子のアユルバルワダ一派は政権中枢部の人材を多数処刑し、事実上のクーデターによって朝廷を掌握した。そして同年、大都の大明殿を訪れたオチチェルはアユルバルワダらから歓待されたが、直後に私邸で亡くなった。
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