キッシンゲンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:12 UTC 版)
ランゲンザルツァの戦いの後、プロイセン軍司令官のファルケンシュタインは自軍を「マイン軍」と称し、マイン川周辺に所在するオーストリア帝国側についたドイツ南部諸邦の軍を攻撃することとした。7月2日、アイゼナハに45,000人を集結させたファルケンシュタインのマイン軍は東南方面のフルダに向けて前進を開始した。この方面にはオーストリア帝国側についたバイエルン国王の率いる第7軍団52,000人とヘッセン公の率いる第8軍団48,000人の2集団があった。第7軍団はヴュルツブルクに集結し、ハノーファー軍を支援するためにコーブルクからマイニンゲンに進出したが、ハノーファー軍の降伏を知ってフランクフルトにある第8軍団との合流を目指し、7月7日にヘルスフェルトで合流するため行軍を始めた。第7軍団の内の2個旅団は合流に先立つ4日にゲッペン師団のプロイセン軍と遭遇したデルムバッハで撃破された。バイエルン王はフルダ南方で第8軍団と合流するつもりだったが、3日にケーニヒグレーツの戦いでオーストリア本軍が大敗したことを知り、途中で王はフランクフルトに退却し、第7軍団はザール川方面に退いた。マイン軍のファルケンシュタインは第7軍団を追撃し、9日にはブッヒェナウからバイエルン国境を越え、10日キッシンゲンとハンメルベルクで第7軍団を撃破した。第7軍団はシュウエンフルトおよびヴュルツブルク方面に敗走し、ファルケンシュタインはなおも追撃を続けるつもりであったが、参謀本部よりマイン川北方の敵を掃討する指令を受けたため、11日には軍を返した。
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