ガーイクワード家の使節殺害とプネー条約
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「バージー・ラーオ2世」の記事における「ガーイクワード家の使節殺害とプネー条約」の解説
1814年、バージー・ラーオ2世の宰相府とグジャラートのガーイクワード家との間で、グジャラートの重要都市アフマダーバードをめぐる争いが起こった。そして、その調停はイギリスによって執り行われることとなった。 だが、1815年7月14日にガーイクワード家から派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう。暗殺したその家臣はイギリスによって逮捕され、ボンベイに投獄された。 しかし、1816年9月にこの家臣は脱獄し、バージー・ラーオ2世は彼に資金を援助し、シンディア家のダウラト・ラーオ・シンディアとホールカル家のマルハール・ラーオ・ホールカル2世に対して、挙兵してイギリスに共同で立ち向かうこと提案した。 この動きはまもなくイギリスに察知され、1817年6月13日にバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約プネー条約を押し付けた。これは以下のような内容だった。 いかなる場合においても、イギリス以外の外国との外交交渉を行ってはならない またそれを保証するために、外交使節を他国に派遣すること及び他国の外交使節を受け入れることを禁じる 外国との交渉はイギリス東インド会社の駐在官を通してのみ行うこと これは形式上においても実質的においてもマラーター同盟の解体を認めさせるものだった。また、イギリスが当時押し進めていたインド諸侯の藩王国化そのものでもあった。
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