カルルク国とカラハン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:14 UTC 版)
766年にイリ地方を占領したカルルクは、その後もモンゴル高原のウイグル可汗国(回鶻)と敵対しながら勢力を保ったが、あくまでヤブグ(Yabγu)の称号を帯びてカガン(Qaγan)号を用いなかった。それはウイグルを宗主国と見做したためと思われ、『カラ・バルガスン碑文』には、「ウイグルが征西した際、フェルガナでカルルクのヤブグをカルルク王に冊立した」ことが書かれている。しかし、カルルクとウイグルが東西で対立していたことは確かであり、それは『シネ・ウス碑文』(Šine-Usu Inscription)によってわかる。 840年、ウイグル可汗国は内乱の最中に北方のキルギズの大軍に襲撃され、ウイグルの可汗が殺された。これによってモンゴル高原のウイグル可汗国は崩壊し、その残党が西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた。これが天山ウイグル王国であり、別の一部はさらに西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流した。この以前に、熾俟(Čigil)部がカルルクから独立している。 その後のカルルクの歴史は不明であるが、940年頃にカルルク国内で最初のテュルク系イスラム国家カラハン朝が生まれたとされるが定かではない。
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