オルレアン包囲戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 20:45 UTC 版)
「ジョン・ファストルフ」の記事における「オルレアン包囲戦前後」の解説
1429年、前年の1428年10月から始まっていたオルレアン包囲戦のイングランド軍へ補給物資を届ける役目を負い、パリから南下する輜重隊の護衛部隊を率いて移動した。2月12日、輜重隊の襲撃を図ったフランス軍と戦闘になり、ファストルフは荷馬車と弓兵を活用してフランス軍を退け、輜重隊を無事に送り届ける任務を果たした(ニシンの戦い)。 しかし、5月にジャンヌ・ダルクが包囲網を破り、イングランド軍がオルレアンから撤退するとその救援をベッドフォード公から命じられ、再びパリから南下して包囲網の司令官だったサフォーク伯とジョン・タルボット、トーマス・スケールズらと合流しようとした。だが、勢いに乗るフランス軍に6月18日のパテーの戦いで打ち破られ、タルボットとスケールズが捕らえられる中(サフォーク伯は別の戦闘で捕虜になっていた)、残存兵を纏めて戦場から退却した。戦後はこの対応が問題視されベッドフォード公からガーター勲章を剥奪される、1433年に捕虜から解放されたタルボットから非難されるなど逆風にさらされたが、やがてベッドフォード公からの信頼を回復、カーンの総督に任命されたり、1435年にアラスで開催されたフランス・イングランド・ブルゴーニュの講和会議にベッドフォード公の使節として派遣され、同年にベッドフォード公が死去すると遺言執行人も任されている。
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