エンヴェルの帰国と襲撃に至るまでの経緯
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「大宰相府襲撃事件」の記事における「エンヴェルの帰国と襲撃に至るまでの経緯」の解説
伊土戦争の義勇軍としてリビアに渡っていたエンヴェルがいつイスタンブルに戻っていたかについては正確にはわかっていないが、エンヴェルは1913年1月1日には首都防衛線のチャタルジャ線でフルシット・パシャ指揮下の第10軍団参謀として軍務に復帰しており、このことから少なくとも1912年12月までにはイスタンブルへと戻っていたと推測される。その後エンヴェルは首都近くにまで迫ったブルガリア軍の撃退のために精力的に軍務に励み、実際エンヴェル自身の手紙では1912年12月26日にはイスタンブルで陸軍大臣ナーズムへ反攻作戦の具申を行ったことが記されている。 しかし1912年12月にはオスマン政府の方針は講和で決定しており、エンヴェルの考えが上層部に受け入れられることはなかった。自身の考えが受け入れられないことが分かったエンヴェルは1913年1月10日の手紙で「陸軍大臣のナーズムを大宰相に据え、徹底抗戦する」という計画を述べており、1913年1月の時点でエンヴェルがクーデターを計画するようになっていたことは確実である。その後、エンヴェルの考えは周囲の人間に伝播していったと推測され、1月23日の大宰相府襲撃の前に二度にわたって襲撃を行うべきか否かを巡る統一派の秘密会合が開催された。エンヴェルを研究するトルコの歴史家アイデミルによれば、結論が出なかった一回目の会合の際、エンヴェルは前線の視察に出ていたために会合には不参加で、二度目には参加していたために、襲撃が決定されたという。
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