エリドゥの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 02:42 UTC 版)
ケイト・フィールデン(Kate Fielden)は、次のように報告している。 「エリドゥは、紀元前5000年ごろ最初期の村落が形成され、紀元前2900年までには、広さ8~10ヘクタール(20~25エーカー)の都市に成長した。その頃の都市の建物は、壁がレンガ造りで屋根は萱葺きとなっていた。そして、紀元前2050年までには、都市は衰退した(外部から侵略された形跡がないため、「衰退」と考えられえる。)。 今日、ウル第三王朝の王アマル・シンが建設したジッグラトの下には、レンガ造りの寺院が18にも重なっていることが確認されており、今後さらに発掘が進む可能性もある。エリドゥの考古学調査は1940年代に行われた。ユダヤ系ドイツ人の歴史家マックス・フォン・オッペンハイム(Max von Oppenheim)によれば、一連の調査から、「メソポタミア南部のシュメールの都市国家群が結果として停滞に陥ったことにより、政治的主導権を北部のアッカドの都市国家群に支配権を明け渡した」ことが明らかになった。これらの南部の都市は紀元前2047年から2039頃に放棄されたが、居住と宗教儀式の痕跡によって、エリドゥの地においてシュメール文明が固有の起源を持つことが示されている。遺跡はイラクの考古学局(Iraq Antiquities Department)によって発掘され、その時期は、主として1946年から1949年の間であった。」
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