ウルソとスキピオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:16 UTC 版)
「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事における「ウルソとスキピオ」の解説
歴史科学では、ウルソに反対した委員達とスキピオ兄弟の関係に関して特別な注意が払われている。紀元前187年、護民官のクィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスは、スキピオ・アシアティクスをアンティオコスから500タレント不適切な金銭を受け取ったと告発した。リウィウスによれば、この事件がウルソの件から注意を逸らすこととなり、結果ウルソは勝利し凱旋式実施の許しを得た。ポリュビオスはスプリヌスの要求は3,000タレントであったとする。このうち2,500タレントはアンティオコスがウルソに支払ったものであった。ウァレリウス・アンティアス(en)によれば、ウルソを訴追した一人であるプルプレオは、スキピオの審理中に調査期間の延長を要求しているが、これはあきらかにウルソの裁判を指している。 これに関しては、スキピオ・アシアティクスに対する訴訟はウルソに対するものと同時に始まったとの仮説がある。プルプレオは、ウルソに対する最初の訴訟では有罪に出来ないと考え、この「アンティオコス賠償金」問題を取り上げた。議論となった3,000タレントのうち、2,500タレントをウルソが受け取っていたため、ウルソに対する調査を正式に開始する必要がでてきた。しかし、大カトがこのスキャンダルを宿敵スキピオ・アフリカヌスの追い落としに使ったため、同時代の人々も年代記録者も、ウルソに対する関心が薄れてしまった。年代記録者は、明らかに重要性が低いとして、この事件に関する記録からウルソに関する部分を削除した。 カトのおかげでウルソは罪を免れた。ウルソは「スキピオ派」から攻撃されたとの別の見方もある。アシアティクスの兄アフリカヌスに対する訴訟は元老院によって却下された。
※この「ウルソとスキピオ」の解説は、「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の解説の一部です。
「ウルソとスキピオ」を含む「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事については、「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の概要を参照ください。
- ウルソとスキピオのページへのリンク