ウォールストリートのブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「ウォールストリートのブル」の解説
個人資産は1億ドルあるといわれていたが1919年11月の株破壊でGMを救済しようとしてそのほとんどを失っていたデュラントだった。シボレーで復活を遂げた天才は自身の自動車会社デュラントを興した。The Curb(場外株式市場)の株式でも当てた。1921年から22年にかけて、スチュードベーカーの8万株を額面の半額で集めほぼ額面価格で売り抜き400万米ドルを手にした。ウォールストリートでの復活も遂げ、デュラントはウォールストリートのグレートオペレータ(大相場師)と呼ばれた。相場師ジェームズ・ロバート・キーンの再来といわれた。 1920年代、デュラントはウォール・ストリートの主要プレーヤーだった。特に1924年以降は、ブル(Bull)とよばれた。1928年に娘のマージェリーの離婚を報じた記事でタイム誌は、マージェリーをdaughter of famed Stock-marketeer W. C. Durant(著名な株式ブローカーであるWCデュラントの娘)と紹介した。1928年には市場で12億ドルを保有し、15以上のブローカーと組んで40億ドルをいつでも動かすことができた。 ジョン・ジェイコブ・アスター(V)、JDロックフェラー、コーネリアス・ヴァンダービルトらに混じってデュラントは、1929年の株式市場破綻の3か月前に5000万ドルを費やした。()
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