ウェルトフレーデンの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:38 UTC 版)
「ジャカルタ」の記事における「ウェルトフレーデンの開発」の解説
フランス革命の余波によってオランダ連邦共和国が滅び、バタヴィア共和国が成立すると、バタヴィアもバタヴィア共和国の領土となった。1807年には東インド総督としてヘルマン・ウィレム・ダーンデルスがバタヴィアに赴任したが、彼はバタヴィア(現コタ地区)が瘴癘の地と化していることを知り、その南に広がるやや標高の高いウェルトフレーデン地区を開発し、ここを行政の中心とした。ウェルトフレーデンには官庁が立ち並び、ワーテルロー広場(現バンテン広場)を町の中心として開発が進められたものの、ワーテルロー広場が手狭であったためやがてその西にあった練兵場であるコーニングス広場(現ムルデカ広場)付近に官庁が移転していき、ここが街の中心となっていった。 1811年にはイギリスがバタヴィアを占領し、イギリス東インド会社の元でトーマス・ラッフルズが副総督としてこの地を統治した が、1817年にはオランダ王国へと返還され、再びオランダ領東インドの政治的中心として発展していった。 1873年にはジャカルタとボゴール間に鉄道が開通し、1877年には市の北東に新港であるタンジュンプリオク港が開港した。ジャカルタの市街地は19世紀から20世紀初頭にかけて南へと一貫して伸びていった。1912年にはウェルトフレーデンの南のゴンダンディアが白人居住区となり、さらに南のメンテン地区にも住宅街が広がっていった。
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