イスハーキーヤ(黒山党)とアーファーキーヤ(白山党)
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「ナクシュバンディー教団」の記事における「イスハーキーヤ(黒山党)とアーファーキーヤ(白山党)」の解説
アフマド・カサーニーの次男のムハンマド・イスハーク・ワリー(?-1599)はサマルカンドからカシュガル、ホータン、アクス、クチャに滞在し、1599年にサマルカンドに帰還した。ムハンマド・イスハーク・ワリーの系統は、カシュガル・ホージャ家のイスハーキーヤまたはカラタグルク、黒山党とよばれた。 他方、アフマド・カサーニーの長男のイーシャーニ・カラーン(ムハンマド・アミーン)の系統がある。ムハンマド・アミーンの子はホージャ・ユースフ(?-1652/53)といい、東トルキスタンに移住した。ホージャ・ユースフの子がホージャ・アファークとして知られるダーヤット・アッラーであった。この系統は、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山党)と呼ばれた。 ホージャ・アファークの没後、息子のホージャ・ヤフヤーが継いだが殺害された。チャガタイ家のアクバシュ・ハーンはその他のホージャ・アファークの子供たちをインドへ送還したという。 アーファーキーヤ(白山党)はイスハーキーヤ(黒山党)との抗争に敗北し、東トルキスタンを追放され、1671年から1672年にかけて西寧(現・中華人民共和国青海省西寧市)に移り、そこで布教に成功し、おおくの中国ムスリム信徒(回民)を獲得した。 白山党の一派にアーファーク統がある。
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