アルメニア第一共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「アルメニア第一共和国」の解説
詳細は「アルメニア第一共和国」を参照 サルダラパートの戦いでのアルメニア軍の善戦によりオスマン軍が足止めされているのを好機と見てとり、アルメニア民族ソビエト(en)はロシア領内であった部分のアルメニアの独立を宣言し、ここにアルメニア第一共和国が成立した。しかし、アンドラニクは民族ソビエトがオスマンとの間に結んだバトゥミ条約(英語版)によって、西アルメニアに対する要求を放棄したことを「アルメニア人が40年間求め続けた西アルメニア以外の部分など、ただ埃っぽい地方に過ぎない」として激しく非難し、民族ソビエトを主導していたダシュナク党に対しても強い反感を抱くようになった。 アンドラニクはペルシア北部に駐留するイギリス軍に合流しようと試みたが、オスマンの大軍と遭遇したためにナヒチェヴァンへの後退を余儀なくされた。やがてアンドラニクはダシュナク党への反発からボリシェヴィキとの連携を模索するようになり、6月14日にはナヒチェヴァンがソビエト・ロシアの「不可分な要素」であるとも宣言した。アンドラニクのこの動きはボリシェヴィキのステパン・シャウミャンやウラジーミル・レーニンに歓迎された。
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